Text-CD 23(3枚組のうち2枚)にはReinhold SchubertとKarlheinz Stockhausenとの間で行われた1977年の貴重な対談が収録されています。
おまけ(?)としてTexteの2巻にはすでにディスコグラフィーとして記述してあったにもかかわらず、生前には公式から録音が発表されなかった作品「STOCKHOVEN – BEETHAUSEN OPUS 1970」も収録されています。
ここから購入できます→Stockhausen Special Edition Text-CD 23
正直に言うと私は「STOCKHOVEN – BEETHAUSEN」を目当てにこのテキストCDを(キュルテンで!)購入しましたが、対談内容も非常に素晴らしい。
ここでシュトックハウゼンは、ベートーヴェン作品への思いを極めて主観的に表現しています。
それに合わせ、一見して自己矛盾的な要素も感じられるシュトックハウゼン自身の作風の変遷についても語っています。
ほとんど抽象的な初期の作品から、なぜ具象的な要素を取り入れるようになったのか等、シュトックハウゼンの思想が活動初期から1977年までどのように変化していったか独白の形で収録されています。
シュトックハウゼン独特の音楽的解釈(特にOp.127)、難解な言い回し(特に後半のコメント)で意図が掴みにくい部分が出てくると思いますが、以下の事を念頭に置いて読んでいただければ、幾分かわかりやすくなると思います。
- ベートーヴェンは一つの作品の中で「人間が経験し得るもの全て」にアプローチしようとしている。
- 音楽的内容の関連性は、共通点によってではなく、共通していない点、つまり否定性によってもたらされる。(モメント形式)
CD1 – トラック1(What Schubert wanted to know about Beethoven: Introduction – Reinhold Schubert)の要約
1977 年に企画された「ベートーヴェン没後 150 周年・弦楽四重奏曲全曲演奏会」に際して、ベートーヴェン作品に対するコメントをシュトックハウゼンに求めた時の思い出をReinhold Schubert本人が語っています。
企画のねらい
当時ディレクターだったラインホルト・シューベルトは、「ベートーヴェンが現代作曲家にとっていまも創造の刺激源である」ことを示すため、8人の現代作曲家に「可能な限り主観的かつ即興的にボンの巨匠への想いを5分程度で語ってもらう」計画を立てた。シュトックハウゼン
依頼リストには当然カールハインツ・シュトックハウゼンも入っていた。しかし彼は「締切間近の仕事がある」「ベートーヴェンについて電報のような短文で意見を述べることなどできない」と辞退した。そこでシューベルトは旧友として直談判を持ちかける。結果、「文章は無理だが口頭で録音なら」という折衷案にこぎつける。ポケットサイズのレコーダー1台でシュトックハウゼンの自宅に訪問する。2時間に及ぶ対話
古典の巨匠と現代を代表する音楽家との邂逅は、後者を心底打ちのめすほど衝撃的なものだったのだろう。シュトックハウゼンは当初、言葉を探るようにためらいがちに話し始め、時折まるで息詰まるほど間を置いた。やがて彼の語りは淀みなく流れ出し、言葉のイメージと比喩、連想を紡ぎ出していった。当初の目的など最早忘却の彼方にあった。ほぼ2時間に及んだ対話からベートーヴェンのコンサートの序説に必要としていた5分間の素材を濾過することこそが、まさに至難の業であったのである。
トラック2(What Schubert wanted to know about Beethoven: Introduction – Karlheinz Stockhausen)の要約
このトラックではシュトックハウゼンが「ベートーヴェン後期弦楽四重奏曲」に対してコメントを残しています。
作品に対する感想
学生時代以来まとめて聴くことのなかった後期弦楽四重奏曲(Op.127, 130 (133), 131, 132, 135)を一気に聴き直し「自分の創作の手本そのものだ」と感じた。ベートーヴェン以外にこれに匹敵する作品を残した作曲家はいない。Op.127(第12番)と130(第13番), 131(第14番)が特に気に入っている。しかし大フーガに関しては今の自分にはやや遠い存在に感じた。対極の振幅について
• テンポ:ほぼ静止した和音から疾走までを数小節で行うテンポの設定方法に魅了される。
• 拍感:規則正しい拍から極端なシンコペーションへ。
• 和声:単なる転調とは言い難い唐突な転換が起こっている。極めて現代的な特徴を持っている。
• ダイナミクス:ピアニッシモの静寂に突然フォルティッシモが切り込み、レリーフのような奥行きを生む。多層的・空間的な書法
チェロと第1ヴァイオリンが主役を分け合い、第2ヴァイオリンとヴィオラが周囲を彩る。そのうえで第1ヴァイオリンが拍節の枠組みにはまらないほどに自由である。 3層、時に4層で進行するテクスチュアは「現代的ポリフォニーの模範」である。総譜の確認はしていないが、ここしばらく聴いているアマデウス弦楽四重奏団(管理人: 1962-63年にかけてのDG録音と思われる)の演奏がそれを際立たせているのかもしれない。素晴らしく立体的な演奏であり、音が前後左右に配置されたかのような「立体感」が際立つ。とりわけOp.130において空間的な深みがある。音域の技法
主題の素材について、かなり離れたオクターブで配置された部分があり、その結果突如としてポリフォニックな層のように聞こえてくる。これほどまでに音域を分化し扱うことも極めて現代的な技法である。後期弦楽四重奏曲は「作曲&聴取の教科書」
高度に凝縮された音楽を集中して聴き抜くことで、感情も知性も「拡張」される。娯楽ではなく精神鍛錬。ベートーヴェンのこれらの音楽はルネサンス以前に語られていた「音楽は人間形成の学問」というラインに連なる作品群である。純粋な作曲技法の修練
死期を感じつつあったベートーヴェンは、長大な展開を作ることや聴衆を楽しませようとする意図を捨て去っている。細部を緻密に紡いで理解しやすく提示し、各部分を橋渡しする手法ももはや用いていない。純粋な作曲技法の修練へと変容していた。中断、ずらし、いくつかの休止、きわめて断片化された構造、そして新たな思考の連続。前の思考への回帰こそあるものの、テンポや音域といった面で既に強く変容しているため、聴き続けるには極度の集中力を要する。余計なものを削ぎ落とし、必要最小限の要素のみを扱い、思考の豊穣さが極限まで凝縮されているという感覚。
CD1 – トラック3(Zu Beethovens Späten Streichquartetten – Opus 127 (Gespräch 1977))の要約
このトラックでは弦楽四重奏第12番 Op.127の各楽章ついてコメントを残しています。(シュトックハウゼンはおそらく楽譜を見ずに聴いているので、楽譜に記されているものとは違う表現で語られる部分があります。)
第1楽章
序奏が終わるとともにカデンツァのような自由さで現れる第1ヴァイオリンに部分に魅了された。序奏後の諸々の展開(カノン、歌謡的楽節、宙に浮いた様な突然の休止等)の後、再び現れるMaestoso部分でもこのカデンツァ風のフレーズが現れる。このような楽器の扱いはずっと後年のヴァイオリン協奏曲などでのみ見られる自由さである。第2楽章
この2楽章が特に興味深い。チェロの低いEsとヴィオラの短7度という不気味な和音に、ヴァイオリンが甘すぎるほどの旋律を重ねる。
このコントラストが私を特に感動させる。
さらにここには後の速いテンポの楽想でも繰り返される特徴的な仕掛けがあり、3拍子の第2拍を省略し、1,3の動きだけで浮遊感を出すことで、実際のテンポよりずっと遅く感じさせる工夫がなされている。通常であれば第2拍も用いるところを、あえて使わないことで哀愁が生まれるわけである。この部分(Andante con molto)を聴いたとき私は真夜中に独りで「ツーステップ」をした。(管理人:ここでシュトックハウゼンが指を鳴らしながら興奮気味に語っているのはこちらも楽しくなってきます笑)
ここで用いられるリズム転換の妙は、高度に洗練された現代ポップスのよう。
ここでも3拍子の第2拍を省略したものが聴こえてくる(管理人: 2拍目を省略したようにシンコペーションが聴こえてくることを言っている)
その後、拍子とテンポが同時に変わるこの部分の手法について。
具体的にはAdagioの部分でテンポ80の2拍子から、何の前触れもなく実質テンポ40の3拍子に聴こえるようになる。(管理人: 2分の2拍子が途中から四分音符単位でヘミオラ的に聴こえる事を指している)
ここはベートーヴェンの独創性が光る瞬間と言える。第3楽章
後期四重奏曲ではピッツィカートは非常に稀にしか用いられず、バルトークの木琴のような打楽器的効果を、厚いarcoのテクスチャーに対して非常に節度ある形で加えている。チェロの呼び声→ヴァイオリンの応答といった対話の音色は、非常に巧妙に構成されている。時に他の楽器がその周囲を装飾しリズムを支える。
ロマのヴァイオリン的ソロと「農民の踊り」とでも呼びたくなる踏み鳴らすリズムが何度も行き来する。
———————————————————————————————————————————————————————————————-
———————————————————————————————————————————————————————————————-
最後の部分は、とても狭い空間に今までのキャラクターが凝縮されている。この感情の変化を追うには「電光石火」の速さでついていかなければならない。コーダといったような概念ではこのようなものには到達できない。なぜなら、性格があまりにも強く様々な方向に押し進んでいくからである。そして、これは現代的な音楽的探求の素晴らしい例だと私は考える。第4楽章
時間の中を自在に駆け巡るような、まさに比類のない表現。まるで現代のSF小説を読んでいるかのような感覚さえ覚える。中間部に差し掛かると、楽想全体がまるで水に投げ込まれたかのように変容し、トリルが水中を泳ぎ回るかのように展開する。雰囲気と奏法が一変するその場面は息をのむほど美しい。この規模で同様の表現が見られるのは、再びラヴェルやドビュッシーを待たねばならないほど。彼は時折このような幻視(ヴィジョン)を得て、様式的な破綻を恐れることなくそれを作品に取り入れ、数ページにわたってその世界を生かした上で、より時代に即した素材へと回帰していた。
ベートーヴェン以外にこれに比肩しうる作品を書いた作曲家は存在しない。
CD1 – トラック4(Zu Beethovens Späten Streichquartetten – Opus 135 (Gespräch 1977))の要約
このトラックでは弦楽四重奏第16番 Op.135の各楽章ついてコメントを残しています。
第1楽章
Op.127では4つの楽章すべてにおいて多様性や予期せぬ展開、そしてあらゆる表現領域のスケールを拡大する試みが顕著だったにも関わらず、Op.135の第1楽章に関しては均質性ゆえにかなり退屈に思えた。第2楽章
第2楽章の始まり方は衝撃的である。通常の楽章開始のように明確なカデンツや主題提示ではなく、副次的な動機付け、例えばシンコペーションを伴う展開部のような、あるいは楽章終結部で見られるような形で突然始まる。そして不意に中断が訪れる。この唐突な始まり方と急激な変化は、他の弦楽四重奏曲とは全く異なるアプローチである。この極めて異例の不意の進行停止こそが特徴である。第3楽章
瞑想的な楽章。ここで奏でられる音楽の内容は過去のヨーロッパ音楽ではほとんど例のないものである。その理由は、持続音が変化せずに残りつつ、現代的な中心音技法のように他の音によって絶えず再解釈される点にあるからである。特に冒頭部分の瞑想的な構成に注目。ごく狭い主題域に耳を澄ませなければならない。すべてが長三度の中にあり、やがて長六度まで拡大しても依然として極めて密度が高い。二つの和音を行き来するだけである。この後、最初の転調、それがいわばサブトニック的に行われる。12小節目からチェロの保持音が絶えず別の意味づけをしている点に注意して聴く。
私はこの楽章はマーラーの「大地の歌」に影響を与えたのではないかと考えている。
「Ade, du schöne Welt (美しい世界よ、さようなら)」のように聴こえる。
冒頭の保持された部分、中間部の休止構造、再びの流動、そして突如現れる“Ade”、私がマーラーで思い出すあの響き。瞑想から始まり、一巡して内心で「世界よ、さらば」と呟く境地へ至る。
その感情のレンジの広さは比類がない。第4楽章
「Es muss sein !」の部分では、ピアノソナタを想起させる呼び声が聴こえる。(管理人: 32番ソナタの事だろうか?)
オペラの一場面のような緊張の後、チェロによってWanderlied(旅の歌)のような、非常に快活なイ長調の主題が現れる。
これこそがまさに減七和音の効果である。和音の上で突然音楽が凍結する様は圧巻である。この鮮烈な和音は、いかなる展開をも予感させながらも留まり続ける。その後、舞踏的な性格を帯び、流れるような旋律線が絡み合うメアンダー的構造、それらが交錯する様を聴き取ることが出来る。Wanderlied(旅の歌)が、意表を突くピッツィカート奏法で演奏される。それはまるで小さなボールを弾ませるかのようである。
CD2 – トラック1(Zu Beethovens Späten Streichquartetten – Opus 131 (Gespräch 1977))の要約
このトラックでは弦楽四重奏第14番 Op.131の1,4,5,7楽章ついてコメントを残しています。
第1楽章
四つの声部(声部を蝋燭に例えている)が順に登場し、スフォルツァートで引き伸ばされた音によって一瞬主題が停滞する。やがて再び流れに戻った直後にナポリの進行を聴くことが出来る。これはすなわち通常の転調ではなく、長二度下行し、次に半音上行することで元の調性へ回帰する進行である。(管理人:チェロの主題が登場する部分(第1ヴァイオリン→チェロの流れ)の事を言っていると思われる)
和声の極めて急速な変化が、ここでは直接的かつ介在なしの跳躍によって生じる。これは聴取能力の拡張の一例であるように思われ、現代の聴き手にとっても非常に素早い理解を要求するものである。主導的声部を担う楽器が、いわゆる「穴」を繰り返し開けることで、別の音域にいるパートナー楽器のためのスペースを作っている点が興味深い。例えば、第一ヴァイオリンが旋律の途中で突然音を保持し、その保持音を背景にチェロが主旋律を引き継ぎ、数小節にわたって主導権を握ったのち、保持音を出していた第一ヴァイオリンが旋律を再開するという仕組み。
主旋律声部と伴奏声部という区分の発想から我々を解放し、非常に興味深いテクニックを生み出している。第4楽章
Op.127 の第2楽章に現れるものとよく似た舞曲的な主題が見られる。打楽器のように用いられるピッツィカートが音色を瞬時に転換させ、旋律をほとんど骨格だけにまで抽象化する。なぜ私がこれに特に関心を抱くのか。それは音色構成の節約性、すなわちピッツィカートが極めてまれにしか使用されないからである。4つの声部の対話の流れの中に、いわば垂直な注意喚起をもたらすからである。
第5楽章
第5楽章にも非常に際立ったピッツィカートの箇所があり、アルコとピッツィカートの対比という観点から見てみよう。
交響曲第6番「田園」を思い起こさせる「子供の歌ような性格」と「ピッツィカート」の対比を紹介する。第7楽章
ここまでいくつかの箇所を抜き出したが、それは少々不公平だったかもしれない。この弦楽四重奏第14番の決定的な点は、全体が単一の作品として溶け合っており、楽章が移行していくことである。第7楽章ではこの四重奏曲全体の思想が、最も狭い空間で再び凝縮される様子を示してくれる。つまり、普通ではない性格の変化が非常に密接に隣り合うことで、まるで高速で過ぎ去る映画の総集編のように、全体の流れを再び追体験出来る。個々の性格について、我々はこれまでテンポや音型の特徴から判断していたが、ここでは独自の性格を持つ個々の楽章を創り出さず、性格特性を互いに衝突させ直接比較している。そしてこれこそが、音楽に対する非常に現代的な姿勢だと考えている。- 総括
戦後、我々はムージルの「特性のない男」という本に非常に感銘を受けた。非常に多くの特性を持ち、もはやその性格を特定できない人間というのは、特定の個人、国家、特定の性格と自己を同一化せず、状況に応じて社会的な機能をよく使い、最大の効果を達成する性格を自らの中に表面化させる。それこそがまさに現代的人間の典型である。このような人間性の訓練を音楽において行うという発想は前代未聞であり、画期的である。つまり、これらすべての異なる性格特性を自らの中で呼び起こし、そして素早い変化を共に体験することによって、もはや何の性格も持たない、あるいはすべての性格を持つような、そのような多面的な人間になる。これは音楽において極めて高度に現代的な姿勢であり、とりわけこの弦楽四重奏曲においてひとつの模範が示されているのである。
CD2 – トラック2(Zu Beethovens Späten Streichquartetten – Opus 132 (Gespräch 1977))の要約
このトラックでは弦楽四重奏第15番 Op.132の2,3,5楽章ついてコメントを残しています。
第2楽章
ここまで語ってきた弦楽四重奏曲において、予期せぬものが突然現れる瞬間に常に深い感銘を受けてきた。
私自身の作品においてはそれを「挿入(Einschub)」と呼んでいる。(管理人: おそらく「MOMENTE」の挿入部分の事でしょう)Op.132の第2楽章においても、バグパイプのようなオクターブのA音の上で、踊るような旋律が持続しているA音との関係において常に解釈し直されている。
同時にさまざまな音程で演奏されることで、人は中心音に集中し、まるで万華鏡を覗くような体験をするのである。第3楽章(リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌)
この楽章で私が最も感銘を受けた点は、この楽章に合唱的な性格を聴くことが出来る部分にある。まるで合唱団が母音で歌っているようだ。弦楽四重奏という形態で合唱団の性格を連想させることが出来る事に私は驚かされた。それが技術的に一体何に起因しているのか、まだ正確に説明する事は出来ない。とにかくこのようなアイディアはまだ私にはなかった。4つの楽器が同時に演奏する箇所から直接聴くと、まるで合唱曲のように聞こえてくる。第5楽章
まるでサラサーテやパガニーニがJ.S.バッハのレチタティーヴォを聴き、それを自分なりに解釈して演奏しているかのよう。作品全体を聴き終えて初めて、この部分は音楽の方向性の変化、聴覚の方向性を変えるために非常に重要であったことに気づかされる。ここまでの総括(Op.127,135,131,132を踏まえて)
これは誰もが認めざるを得ないことで、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲は歴史を超越している。一体ここで音楽に何が起こっているのか?私はすでに一人の人物、あるいは一つの作品全体を構成する多様な性格について語った。
それは、人間が体験できる限界まで到達しようと一つの作品に一つの性格だけを作り、別の作品に別の性格を作るのではなく、
一つの作品の中で「人間が経験し得るもの全て」にアプローチしようとしている。
そのためには、もちろん空間と時間を圧縮する必要がある。
形象は絶えず変化するが、身振りあるいはエネルギーの配分は、弱と強の間、密と疎の間、停止と運動の間、そしてその間にある多くのものはエネルギー曲線を示す。このエネルギー曲線の中において、現在性が主要なテーマとなる。
このテーマについて、私の作品においては最初の頃から重要なものとなっていた。
当時このテーマがベートーヴェンの晩年の作品において、すでに存在していたことに気づいていなかった。
かつて私はいわゆるクラシック音楽に対してこのように表現した。
「クラシック音楽では、同じものを常に異なる形で示していた」。
つまり、モチーフやテーマを常に変奏し、変化させ、展開させていたのである。
私は「常に同じものを変化する光の中で提示する」のではない。
「同じ光の中で常に新しいものを提示する」のである。
今日、多くの人がモメント形式について語っているが、
しかし、それは必ずしも完全に不連続な形の概念を頭に描いているわけではない。
私がモメント形式で言いたいのは次のようなことである。
一つの性格を形成し、次に第二の性格を形成する。
第二の性格は全く異なるものであったとしても、第一の性格に関連していなければならない。なぜなら、第一の性格が持っているものを含んではならないからである。
第三の性格は、第一と第二の性格が持っているものを含んではならない。
関連性は、共通点によってではなく、共通していない点、つまり否定性によってもたらされる。
さらに進んで4つか5つの性格を作ると、特定の楽器セットがある場合、音色がすぐに似通ってきてしまう故にそれがどれほど難しいか分かるだろう。
モメント形式の形成において性格は、非常に簡潔であり余分なものはそぎ落とされる。
全く新しい種類の不連続性、つまり多元的な形態を形成するのである。
次に私はどのようにして多様性を、並列関係の中で、聴き手に共通していない点を比較出来るように意識させることが出来るかを考えるのだ。
CD2 – トラック3(Zu Beethovens Späten Streichquartetten – Opus 130 (Gespräch 1977))の要約
このトラックでは弦楽四重奏第13番 Op.130の1,2,3,5楽章ついてコメントを残しています。
第1楽章
Op.130は、常に非常に現代的な印象を与える作品であり、私にとって最も身近に感じられる作品である。冒頭からして、半音階的に下降するユニゾンのフレーズによって、まるで作品の途中から聴き始めたような印象を与えられる。
私は、作品が「常に始まりと終わりを持つ」必要はない事を明確にしようと幾度となく試みてきたが、多くの誤解に遭遇してきた。
それは概念としての永遠の音楽があり、人はそれに時々耳を傾けるが、それは常にそこにあったかのような、そして人が聴くのをやめてもまだ続いているかのような印象を与える作品、というものである。
それがこの冒頭で意識される可能性がある。
冒頭の半音階的なフレーズに耳を傾けてみよう。
今聴いた遅い始まりの中から、突然遠くから速いパッセージが飛び込んできて全く新しい素材をもたらす。
Op.130の第1楽章において、まさに現代的な空間性を感じる。
新しい素材、新しいテーマが遠くから過剰なまでの明瞭さをもって現れ、再び消えていく。消えていくと同時に、別の素材が背後から現れる。そしてテンポの対比は、まるで写真を別の写真に切り替えるように即座に比較される。比較そのものに異様なものを感じさせる緊張感が存在するのである。第2楽章
第2楽章には、非常に激しいロマの音楽のような半音階的楽想が登場する。
これは第1楽章冒頭の半音階的な楽想を想起させる(意図されたものかはわからないが)。
ルフラン(繰り返し)が存在しそのルフランへの移行は、まるで民俗音楽が唐突に侵入してきたような異質さがある。
私はそれをロマのモチーフと呼んでいる。
このような音楽は構造的作品から導き出されるものではない。むしろ私たちの潜在意識にある古来からの記憶を呼び覚ます、いわば来訪者のような着想である。
極端にゆっくりとした性格のものを突然裂け目のように切り開き、他の音域にある非常に速いパッセージを挿入する。それにより緊張感、あるいは経験の幅が生まれる。これはフーガや変奏、展開による技法では決して得られないものである。第3楽章
第3楽章では中盤、チェロがフーガの主題のように開始する。
しかし、すぐに第2ヴァイオリンとヴィオラが八分音符の別の踊りの主題を奏で、チェロがそれを引き継ぎぐ。
断片的なレチタティーヴォが何度か現れ、主要主題へと回帰していく。
Op.135の3楽章のように、マーラーの別れの歌を思い出させる箇所。
Op.127のようにカデンツァが出てくる。
そしてピッツィカートにより色彩が変わっていく。このように常に方向性だけが示され、その先がどうなるかは想像できるようで、想像できない。実際には違う方向に音楽が進んでいくのである。
例えば、第3楽章冒頭、フーガが続いていくかと思わせすぐに交響曲やソナタの典型的第3楽章の如く楽節に戻るのである。
つまり、これらの暗示だけが、聴衆の空想の中で楽曲全体を結びつけることを試みているのである。
示唆された音楽的な雰囲気により経験している感情と一体化することを試み、そして素早く飛び移り、立ち止まり、新しい感情に共感し、またしばらくそれに寄り添う必要がある。
それができれば、まるで魂のマッサージを受けているような感覚になるだろう。
つまり、途方もなく柔軟になり、もはや単一の性格だけに同化しなくなるのである。- 第5楽章
この第5楽章「カヴァティーナ」には非常にユニークなパッセージがある。
私はそれを音楽の文脈から切り離し、繰り返し聴きたいと思うほどである。
聴いているだけだとリズムの特定が非常に困難である。
完全に独立した旋律の断片であり、この時代で他に類を見ない断片的な音楽。
自分の作曲家としてのキャリアの初期を思い出す。私は音を個別に空中に投影し、各音の後に休止を入れるというアイデアを持っていた。(管理人: プンクテの事だろうか?)
それについて、当時は周りから笑われたものだった。当時私は、単音一つ、そして単音の連なりも意味を持ち、旋律として繋がった音だけが意味を持つのではない、と主張したのである。
さあもう一度、音の断片的な性質、そして完全に拍子から解放されている点に注目して聴いてみよう。
背後に拍子が存在することで、その効果はより一層強まるのである。 総括(Op.127,135,131,132,130を踏まえて)
まさにこれらの作品の存在が小さな奇跡であり、歴史上唯一無二の存在である。
天才とは特定の点において時代を超越していると、今日になってようやく言えるのである。ベートーヴェンのように、人間的な様々な感情を昇華させた人は、最も粗野なものから最も霊妙なものまで20オクターブのハープを内に秘めているであろう。どの側面が奏でられるかによって、最も根源的なもの、野性的でロマ的なもの、農民的な民俗音楽から、20世紀になって初めて現れた最も洗練されたもの、そして遥か未来に横たわるものまでが現れるのである。晩年のベートーヴェン、特に弦楽四重奏曲が、現代において何故これほどまでに重要な存在なのか?
当初、私自身は「形象もモチーフも認識可能なものを一切排除」すると発言していた。
そのうち徐々に、私はこの抽象的な風景の中に、いくつかの認識可能な要素を取り入れ始めたのである。
電子音楽における特定の既知の音色、例えば「少年の歌(GESANG DER JÜNGLINGE)」における子供の声や、あるいは「コンタクテ(KONTAKTE)」における打楽器の音色、あるいは「ヒュムネン(HYMNEN)」において非常に単純でありふれた要素としての国歌を用いた。それらを用いることにより、認識可能な現象に起こる変容をより強く体験することができるのである。
私はすでにモメント形式について話したが、それは最初から最後まで赤い糸で聴衆を惹きつけるだけでなく、一見相容れないものの比較、組み込まれたアクシデント、サプライズ等により聴衆を惹きつける形式を構築することである。
クラシカルな、つまり古典的な音楽の多くは語りかける音楽、すなわち「話す」音楽だった。
ベートーヴェンの場合、この言語のリズムは芸術的な言語になっている。そこでは、個々の言葉が非常に長く保持され、突然テンポが速まり、再び停止する。
まるで、ほとんど抑えきれない劇的な言語を持っているかのようである。
この言語の変化、つまり語り口は、非常に素晴らしく、洗練され、変化に富んでおり、それを提示し、触れ、軽く叩くことは、人が経験しうる全ての可能性を示唆するに過ぎない。
そして、皆が必ずしも全てに共鳴することは無くとも、細部において必ずどこかで共鳴を引き起こす。それこそが人が創造しうる最も素晴らしい芸術なのだろう。
つまり、狭いスケールでのみ音楽を作り、それによって同類や関連する精神だけを共鳴させるのではなく、作品が非常に広いスケールを持つ事で、誰もがどこかで自分自身を経験できるということである。
それにより、他の性格もいつか経験できるようになりたいという憧れが生じるのである。しかしながら、アマデウス弦楽四重奏団のような解釈は必要不可欠であると言わざるを得ない。彼らは、私見では、自らの中に表現の幅を培ってきた芸術家であり、それゆえ最も情熱的な表現から最も冷静な表現まで、広い表現の幅を持っている。
極めて狭い範囲内での気分の急転換、単なる飾りではなく表現要素としての様々な音域の活用、例えば、盛り上げたい、あるいは興奮させたい時に高い音域を用い、落ち着かせたい時に低い音域を用いる、といったような使い方ではなく、
むしろ全く逆に、ある考えを持って高い音域を用いながら、同時に別の考えを持って低い音域を用いる、チェロと第一ヴァイオリンとの完全な対等性、対話の相手としての役割、そしてしばしばシグナル的モチーフを用いた会話への内声の組み込み、これら全ては今日までの(1977年当時までの)約20年間の抽象音楽の時代を経て(全ての音楽が抽象的だったわけではないが、非常に多くの主導的な音楽がそうだった)現代の音楽において非常に重要な側面となる。ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲という山からは、非常に大きく、そして広範囲に及ぶ歴史的発展のための展望を得ることが出来るのである。